promised tune



窓から入ってきた爽やかな風が、頬を撫でていく感触で目が覚めた。
ほんの少し、潮の香りが混じる風だ。
「気がつかれましたか」
イオンが目をあけると、窓際の椅子に腰かけていた青年がにっこりと微笑む。
「あなたは…」
やや褐色がかった肌に、やわらかくウエーブする銀色の髪。
グランコクマでの会議で何度か見かけたことがある顔だった。
「フリングス将軍、でしたよね」
「覚えていただいているとは…光栄です、導師イオン」
そう言って目を細める。
「ここは…グランコクマですか?」
窓の外から聞こえてくる、活気のある街の声。
そして、カーテン越しにもわかる家々の屋根の蒼い輝き。
マルクト帝国の帝都グランコクマは、ダアトから逃げ出してマルクト軍に身を寄せていたイオンにはなじみのある場所だった。
「ええ、そうですよ」
フリングスは頷くと、イオンに向かって姿勢をただした。
「ピオニー陛下が、イオン様がお目覚めになったらお見舞に伺いたいと仰っていました。さっそくご連絡しようと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ…お願いします」
イオンが寝かされていたのは軍の病院の一室のようだった。
検査のため何度か訪れた事のある場所。
イオンはハッと顔を上げた。
部屋を出て行こうとしたフリングスを呼び止める。
「あ…フリングス将軍、お尋ねしたいのですが…」
「何でしょう?」
「その…僕と一緒に大地降下作業をしていた、少年は…?」
「少年、ですか?ああ…一緒に運び込まれた方の中に、もしかしたらいらっしゃったかもしれません」
ノワールたち他の怪我人は、この病院の別の棟に寝かされているという。
フリングスは首をかしげ、思い出そうとするように何度か瞬く。
「では他の方の容態がわかるよう、医師に頼んでおきましょう」
「ありがとうございます」
「その少年の名前はご存知ですか?」
問われて、ルークはハッと気づく。
まだ名前を聞いていない。
イオンも名乗るような事をしていない。
知っているのは、お互いがイオンのレプリカであるという事実だけ…
「そうですか…ではイオン様と一緒に運び込まれた方々について、名前も併せてわかるように手配しておきます」
そう言って人当たりのいい笑みを浮かべる。
「よろしくお願いします」
一人残された部屋で、イオンは大きな溜息をついた。
今がいつなのかもわからない。
本当なら自分がどれだけ眠っていたのか、ルークたちはどこにいるのか、と真っ先に聞くべきだったのに。
そっと苦笑する。
ちょっと強く息を吐き出しただけで、身体が内側から軋むような違和感を感じた。
――――今のイオン様の身体では、ラジエイトゲート起動の負荷を受け止めるだけで精一杯のはずです。
ジェイドの言葉が頭を過ぎる。
大地降下の間、持ちこたえる事ができた。
でもたぶん、もうダアト式譜術を使う事はできないだろう。
ひび割れたガラス細工のように、あと少しの衝撃で、粉々に崩れ落ちてしまいそうだ。
重い眠気が再びイオンを包み込む。
抗おうともせず、イオンはそのまま眠りに落ちていった。





覗き込んでくる瞳。
瞳と同じ緑色の髪が揺れる。
「…!」
それまでぼんやりとしていたイオンは、驚いてベッドの上に身体を起こす。
途端に肺が締め付けられるように痛んで、イオンは胸を押さえて咳き込んだ。
「ゲホッ、ゲホッ…」
「導師イオン、大丈夫ですか?医師を呼びましょうか」
「いえ…ゲホッ…大丈夫です…」
フリングスが心配そうに背中をさする。
「すみません、ノックはしたのですが…驚かせてしまったようで」
「彼は…」
「ええ、この前お話にあった、イオン様と同時に運び込まれてきた少年です」
二人の視線の先には、イオンと同じ見た目をした少年。
ただ、その瞳の中にはイオンよりも子供らしい、若干悪戯っぽい光が浮かんでいる。
「フリングス将軍…すみません、少しの間席を外して頂けますか?」
「…わかりました。扉の外に居ますから、何かあれば声をおかけください」
少年と二人だけになった部屋。
イオンはベッドに半分身を起こしたまま、少年に問いかける。
その頬に貼られた大きなガーゼが痛々しい。
「あなたは…誰ですか?」
少年は少しだけ首をかしげて、にっこりと笑う。
「兄弟」
「えっ?」
その答えにイオンは目を見開いた。
「僕と君が同じ顔をしているのは、同じものから生まれたからだって言ったんだ。そしたら、そういうのは兄弟≠チて言うんだって」
「きょう…だい…」
それは医師か、あるいは兵士に問われた事なのだろう。
この世界に暮らす普通の人々は、フォミクリー技術…レプリカを生み出す技術の事を知らない。
「同じものから生まれたという事は…あなたもイオンのレプリカ≠ネんでしょう?」
「イオン?イオンは君でしょう?」
少年は不思議そうに言う。
さっきもイオンと呼ばれていたではないか、と。
「じゃあ君は誰?」
「僕は…」
イオンは唇を噛み、悲しそうな顔で考え込む。
「僕には…本当の名前がありません」
ずっと、イオン≠セった。
オリジナルの名前で呼ばれ続けた。
でも、オリジナルにはなれないまま。
その代わりをすることも、満足にできないまま。
「でも君はイオン≠ノなれたってことでしょう?」
「それは…」
少年に、イオン≠ニして選ばれなかったたくさんのレプリカたちが重なる。
不適合とみなされたものは、生きたままザレッホ火山に捨てられていった。
「僕ね、すぐ捨てられたんだ。でもその後また回収されて、今度は違う場所へ連れて行かれた」
記憶をたどるように、少年はうつむいて眉根を寄せる。
「もうレプリカの作成数自体が減っていたから、ちゃんと形になったもの≠ナあれば能力的にできそこないでもかまわないって、そう言われた」
適性があると言われたのは譜術の制御くらい。預言(スコア)を読む力もほとんどない。
「初期の教育は受けさせられたけど…その後はすぐまた別の場所に移動になって…」
だから僕はイオン≠ノなれなかったと、彼は無邪気に笑みさえ浮かべて言った。
「名前も、もらえなかったよ」
場所が変わると自分に振られた番号も変わる。結局、名前のような固定の呼び方はないまま。
それを残念そうに言う少年の表情に、イオンの中に一つの単語が過ぎった。
「…フローリアン」
「フローリアン?」
「あなたの名前です、どうですか?」
「僕の名前?…フローリアン…!」
口の中でその響きを繰りかえす。フローリアンは、ぱっと顔を輝かせた。
無垢なもの(フローリアン)=\―――それはとても、彼にふさわしい名前に思えた。
「僕も、僕だけの名前が欲しかった…」
「イオンじゃ駄目なの?同じ名前の人がいたら、変?」
「それは…いいえ、駄目じゃないですよ」
寂しそうに微笑む。
それでも、イオンと呼ばれるたびに、自分が所詮はレプリカであるという思いが強くなっていくようで。
「そっか。じゃあ…今度は僕がつけてあげる」
「え…?」
「君の名前。今度来るときまでに考えるね」
そう言ってフローリアンは立ち上がり、にっこりと笑う。
(兄弟って…こんな感じなのでしょうか…)
ラジエイトゲートでも感じた、暖かな思い。
「ありがとうございます…ゲホッ…ゲホゲホッ!」
「イオン様?大丈夫ですか?」
咳き込む声に、扉がノックされる。
フリングスの心配そうな声。
「大丈夫、です…」
扉が開かれる。
「どうしました?」
「ちょっと咳き込んだだけです。彼はもう帰るので…送っていってあげてくれますか」
「は、はい…わかりました」
「あのね、僕…フローリアンって言うんだよ」
「お名前ですか?」
「そう!」
にぎやかな声が廊下を遠ざかる。
「ゲホッ…ガホッ…」
イオンは再び激しく咳き込むと、ふらりと窓辺に寄りかかった。
咳をするたびに、いや…息をするだけでも、体中の力が奪い取られていくような感覚。
「もう…限界…なんでしょう、か…」
吹き込んでくる潮風がカーテンを揺らす。
その向こうの青空が見たくなって、イオンはカーテンを開け放った。
部屋中に差し込む明るい光。
薄青く輝く石畳に所々残る水溜りが、朝までの雨を物語っている。
遠くの空に、綺麗な虹がかかっていた。
もう少し。もう少しだけ、この美しい世界を見ていたい。
どうかそれを許して欲しい。
どうか―――――





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