MEMORY
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雪深い街の一角に佇む、重厚な屋敷。 先代が、彼を預けたのは愛情からだったかもしれない。 しかしそこは、豪奢な牢獄だった。 外に出る時は必ず数人が供につく。窮屈な生活。 まだ少年である、未来の皇帝の安全は過剰なほどに守られていた。 そして誰もが彼に気を使っているのが理解できたからこそ、彼は笑顔を絶やさなかった。 「眠れないんだ…」 「え?」 「すこし眠ると…屋根から落ちる雪の音が、足音に聞こえて目が覚める。その後…眠れなくなるんだ」 「暗殺が怖いから、ですか?」 彼は首を振る。 「何だろうな…うまく説明はできないんだけど…考えすぎるから、かな」 「何をです?」 「俺を生かすために生きている人がいる。俺を生かすために殺される人がいる。今はそれだけでも重荷に感じてしまうことがあるのに…それでもこの先いつかは、もっと多くの人々の命を背負うことになる」 この街に来る前の月に、暗殺騒ぎがあったらしい。 彼を庇って、兵士が一人死んだ。 「…それを受け止めることが俺の役割だとわかってもいる。わかってる、つもりだけどな…」 自分に言い聞かせるように呟いて、やはり彼は笑っていた。いつもと同じような顔で。 まだ、自分は本当の彼を見たことがない。そう思った。 たぶんあの時は、それが気に入らなかったのだろう。 夜の、警備が一番厳しい時間に忍び込んだ。 雪の降り続く、寒い夜だった。 「外に出ましょう」 「は…?」 施錠され、ベランダを眺めることしか出来ない大きな窓。 その向こうから私の声が聞こえたのだから、よほど驚いたのだろう。人を呼ぶ気配もない。 迷いなく鍵を譜術で焼き切った私が外側から、大きな音を立てないように、ゆっくりと窓を開く。 「お、おい、ジェイド?」 案の定驚いた顔で彼は立ちすくんでいた。 冷たい空気が一気に部屋の中へと流れ込む。 「何も逃げろと言っているのではありませんよ」 いくら私が子供とは言え、ここで彼を本当に連れ出してしまえば罪になることくらい理解している。 もちろん勝算はいくらでもあったが、わざわざそんなことをしようとは思わなかった。 ただ、閉め切られた部屋の中から一歩でも外で話がしたかっただけである。 途切れることなく降り続く雪。 窓の外は、暖かく閉鎖的な室内とはまるで別世界だった。 「…換気をするだけです」 そう言って、ベランダに積もった雪を踏みしめる。 まだ豪華なホテルやスパのない頃は、夜に出歩く者の姿はあまり見られなかった。 見下ろしても雪に覆われた街と、家々の明かりが僅かに見えるだけ。 それでもそこには、澄み切った空気があった。 「まだまだ積もりそうですね」 「ああ…」 降り続く雪はまだ止む気配を見せない。 鉛色の雲が垂れ込める空は、町の明かりを反射して鈍く輝いていた。 「重い空だな。世界を…閉じ込めてるように見える」 雪は次から次へと落ちてきて、肩や頭の上にも降り積もる。 「それに寒い」 「当たり前でしょう。だから雪が降るんです」 頬に当たる空気は痛いほど冷たい。 足先も痺れてくる。 「…へっくしゅ!」 さすがに寒くなってきたのか、大きなくしゃみを一つ。 隣に立つピオニーの手を握ると、彼は目を丸くして私を見た。 「…ジェイド?」 「暖かいでしょう?」 「…?」 手の甲はピリピリするほど凍えていても、繋いでいる手のひらは暖かい。 「私にしては珍しい行動ですか?」 「あ、ああ…」 「そうですね。私もそう思います」 何故こんな時間に会いに来たのか。何故ベランダに出たのか。何故手を繋いだのか。 …正直なところ、自分にもよくわかっていなかった。 ピオニーが不思議そうな顔で首を傾げる。 その髪からさらさらと雪が落ちた。 「うん…?」 「…私はずっとこの街で育ちました。あなたがここに来なければ、こうして手を繋ぐこともなかったでしょう」 「……。」 「私はあなたに興味を持ちました。あなたのために生きてもいいかもしれない、と思っています」 結局のところ、これが言いたかったのだろうと思いながら口に出したのは、やはり私にしては珍しく詩的な台詞だった。 「けれど、私はあなたのために死ぬことはしません。この国が誰のものであろうと、私の命は私だけのものです」 少なくともここにひとつ、あなたに背負わせることのない命がある。 「…それだけでは足りませんか?ピオニー」 慰めにもなっていないかもしれない。 「…そうか。そうだな」 それでもそう言って、少しだけ泣きそうな顔で彼が笑ったとき、初めて彼の素顔を見たような気がした。 後から考えると、名前を呼んだのもこのときが初めてだったかもしれない。 そして二人して風邪を引いて、たっぷりと叱られた。 *** 「……で?また性懲りも無く私の執務室の床に穴を開けた理由はそれだけですか?」 私の≠ことさら強調して溜息をつく。 目の前には、この帝国の皇帝陛下が正座をして下を向いていた。 彼の座っている床の継ぎ目から、部屋に吹き込んでくるのは冷たい風。 「まったく…庭園を横切る僅かな時間より、ここまで穴を掘る間のほうがよっぽど寒いでしょうに」 庭園に出るのが寒いからと、皇帝が私室から将軍の執務室まで穴を掘る―――しかも皇帝自身が―――など、この国だけだろう。 いや、この人だけだろう。 しかも、これが初めてではないのだ。私室へ直接繋がる道があると知られては安全上大きな問題になる、と再三塞いだにも関わらず、懲りずにそれを突破してきたようだ。 「ジェイド…さすがにちょっと…寒いんだが…」 いくら音機関で部屋を暖めているとはいえ、床は冷たい。 しかも、冷たい空気の溜まる地下通路に繋がる床は、隙間風もあってかまるで氷のようだった。 その上に直接正座した彼は、冷えきってガタガタと震えている。 「えーえー、寒いですね。隙間風のお陰で換気の手間が省けてありがたいことです」 私の機嫌が悪いのは穴のせいだけではなく、その穴に気を取られた隙にキスを掠め取られたせいもあるのだ。 油断も隙もない… もちろん彼は反省の色がない!と一喝されて、今の正座に至るわけである。 「お…俺が悪かったって!な?」 何度目かの溜息をついて、ようやく「ソファへどうぞ」と呟く。 飛び上がるように立ち上がった皇帝―――ピオニーは、柔らかく暖かなソファに沈み込んで安堵の笑みを浮かべた。 「…そこの棚にワインがあります。一杯くらいなら、付き合って差し上げますよ」 ソファの隣の棚を指すと、ピオニーはガラス越しにその飾棚を覗きこんだ。 ボトルに張られたラベルを確認して、小さく口笛を吹く。 「ほーう、お前にしちゃ気の利いた揃え方してるじゃないか」 「………どれになさいますか?」 「そうだな…こいつは?」 指された一本を見て、僅かに目を細めた。 「ええ、構いませんよ」 ガタガタと窓が鳴る。 揃って視線を向けると、カーテンの隙間から見える外の景色は白銀。 もう夜も更けているというのに、反射する光のせいかおぼろげに明るい。 「もうちょっと熟成させても良かったかもな」 ボトルを手に取ったピオニーが呟いた。 「見るたびに年を取ってしまったという虚しい気持ちになるだけですね。いい機会です、さっさと空けてしまいましょう」 そう言ってグラスを机に置き、しかしソファに座ることなくピオニーに背を向けた。 「でもその前に…」 「?」 鍵を外し、窓を開ける。とたんに吹き込む風は雪混じり。 眼鏡を外し、寒風に髪を乱されながら振り返る。暖かい部屋と彼の姿に想い出が重なる。 ピオニーも立ち上がると、窓へと歩み寄った。 「少し、外に出ましょうか」 このグランコクマでは珍しい、せっかくの銀世界だ。肴にするには寒すぎるが、一見しておく価値はあるだろう。 「……お前が手をつないでくれるならな」 「おや、私がそんな似合わないことをするとお思いですか?」 そう言いながらも、口元に浮かぶのは、笑み。 「そうだ、あいつは呼ばなくていいのか?」 「やめてください、噂をすると来てしまいそうですから」 「あのワインなら飲ませてやってもいいだろうに」 「そうですねえ、ま、同じ物を持ってきたら飲んであげるとしましょうか」 ふと、どちらからともなくテーブルを見る。 上に置かれたワインのラベルには、それが作られた年が記されていた。 私たちの出会った、記念すべきあの年が。 |